54023通りの空論

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第136連隊のカヴェニー大佐を探して:後編

GHQと京都刀剣(普及版)』を読んで、京都市内の警備を担当していたカヴェニー大佐(あるいはコーペニー大佐、コーベテ大佐)がどんな人物か気になったので調べました。備忘録も兼ねて典拠を記載しているうちに文字数が多くなってしまったので、記事を前後編に分けてあります。この記事は「後編」です。

hayyu54023.hatenablog.com

※後編もわりと長めです。(約14000字)
※「GHQ 刀狩り」と検索して出てくる、よくあるタイプの悲劇感たっぷり自己憐憫どっぷりな語りとは別の角度から、それなりにきつめの話をしています。きつめの話が嫌な方にはおすすめしません。
※1940年代の英語圏では日本刀も軍刀も全て「Japanese sword」としてカテゴライズされていましたが、そんな時代背景なんてどうでもいい、という方にもおすすめしません。
※後編の終盤では日本刀を使った殺人行為、日本刀の武器としての性能や、日本刀(集合体)としての軍事的意義について書いています。日本刀を武器として扱うことに抵抗のある方(日本刀に美術品としての価値しか見出していない方)にもおすすめしません。
※途中で読むのがつらくなったらいつでも中断してください。「カヴェニー大佐とは誰なのか?」という問いには、前編で結論が出ています。後編は「カヴェニー大佐とは誰なのか?」という問いに答える内容ではありません。
※Nov 11, 2023、表示されていなかった挿入画像が表示されるよう修正しました。また、文体を優しめに変更しました。

占領期以前のカヴェニー大佐

戦後の大津・京都進駐時代のカヴェニー大佐の大まかな動向は前編で明らかになったとして、戦時中のカヴェニー大佐は第136連隊の指揮官として、日本とどのような関わりも持っていたのでしょうか? 引き続き、Internet Archiveで公開されている第33師団の軍隊史『The Golden Cross』を詳しく見ていきましょう。

同書の第5章Morotai: Jungle Warでは、カヴェニー大佐について「gruff Missourian (強面のミズーリ州生まれ)」で、「a line infantryman throughout all of his twentyeight years of Army service (過去28年間の軍歴において、一貫して戦列歩兵であった) 」*1と説明されており、1918年に20代前半で従軍してから、人生の半分以上を前線で戦い指揮する軍人として生きていた人物であることが分かります。

ファーストネーム、ファミリーネーム、階級の三点に加えて出身州も分かったら、次の課題は大佐の徴兵記録の調査です。1918年といえば、アメリカ政府が第一次世界大戦のため、18~45歳の男性市民に徴兵登録をさせていた時代です。つまり、第一次世界大戦カテゴリの従軍記録で、1918年前後に徴兵登録を行ったミズーリ州出身のRay E. Caveneeを探せばよいと思われます。

というわけで、カヴェニー大佐の徴兵時の登録情報を探していたところ、思いがけず大佐のお墓情報に遭遇してしまいました。

www.findagrave.com

ミズーリ州出身の1894年11月生まれで、第一次世界大戦第二次世界大戦に従軍し、最終ランクは大佐のアメリカ陸軍に所属していたRay Eric Cavenee氏。1944年時点で50歳 (11月が誕生日のため、3月時点では49歳)となるため、『The Golden Cross』の「第136連隊は1944年3月14日付でDraper大佐からRay E. Cavenee中佐(50歳)へと引き継がれた」という説明とも、おおよその年齢が合致します。

念のためNARAのAccess to Archival Datebase (AAD) でも「Ray Cavenee」と検索したところ、「Claim Files, 1936-2007 (Last Names A through C)」のカテゴリで1884年4月生まれのRay W Cavenee氏と1894年11月生まれのRay E Cavenee氏の2件がヒットしました。1894年11月生まれのRay E Cavenee氏のデータは1960年1月に作成された死亡記録で、1959年8月24日にカリフォルニア州で亡くなったことが分かります。出生地や誕生日の情報は記載されていませんが、ミドルネームを含むフルネーム、亡くなった日付、亡くなった州が一致しているので、墓石に刻まれた名前の人物と同一人物だと考えて間違いないでしょう。

カヴェニー大佐のフルネームや階級がある程度明確になったところで、次はCongressional Record (連邦議会議事録) の出番です。一定階級以上の軍人に関する情報、特に昇進や人事異動に関する情報は大体こちらに掲載されており、米軍関係者を探す際に非常に便利なアーカイブです。

「Ray Cavenee」で検索したところ、Senate (上院)の議事録に掲載されている大佐関連の情報は、大まかに下記の通りでした。

1921年2月28日の議事録の任命欄 (Notifications)
Volume and Section: Vol. 60, Part 4 - Senate, pp. 4071
1920年7月1日付で、少尉から中尉に昇進。

②1933年2月3日の議事録の任命欄 (Notifications)
Volume and Section: Vol. 76, Part 3 - Senate, pp. 3304
→1933年2月1日付で、中尉から大尉に昇進。

③1940年1月4日の議事録の任命欄 (Notifications)
Volume and Section: Vol. 86, Part 1 - Senate, pp.40
→1939年12月1日付で、大尉から少佐に昇進。

④1942年3月30日の議事録の任命欄 (Notifications)
Volume and Section: Vol. 88, Part 3 - Senate, pp.3203
→1942年4月4日付で、少佐から一時的に中佐扱い。

⑤1942年4月3日の議事録の人事異動確定欄 (Confirmations)
Volume and Section: Vol. 88, Part 3 - Senate, pp.3329.
→一時的な中佐扱いから、正式に中佐に昇進。

同時期の歩兵隊(Infantry)にRay Eric Caveneeと似た名前・似た階級の軍人はいないようなので、連邦議会議事録に掲載されているRay Eric Cavenee氏も、大津および京都に進駐した第136連隊の指揮官カヴェニー大佐と同一人物であると考えて間違いないでしょう。なお、1943年と1944年は海軍や海兵隊、他の後方支援部隊も含めて人事異動の掲載情報が少なく、ドレイパー大佐から第136連隊を引き継いで大佐に昇進した際の人事情報は掲載されていません。もしかしたら連邦議会議事録以外に別途収録している文献があるのかもしれませんが、現時点では未確認であることを記しておきます。

第136連隊と日本軍の関わり

カヴェニー大佐の戦争体験について、第136連隊が第6軍司令官クルーガー大将に抜擢されるきっかけとなったKennon RoadとSkyline Ridgeを中心にもう少し掘り下げておきましょう。(注意:第136連隊は最前線で戦っていた戦闘部隊なので、日本軍との関係は基本的に血で血を洗う殺し合いです。)

Kennon Roadはフィリピンの戦い (1944-1945年)の中のルソン島の戦いに登場する地名で、ロザリオ市とバギオ市を繋ぐ山間部のケノン道路を指します。軍隊史『The Golden Cross』の第9章Action on Kennon Roadによると、カヴェニー大佐は第136連隊の指揮官として、ケノン道路の南東にあるラベイアグ(Labayug)からアリベン(Alibeng)一帯の制圧を任されており、2月下旬ごろからバギオ攻略に向けてケノン道路へ進軍しました。*2 しかし、バギオには1945年1月から日本軍の司令部が置かれていたために守備が堅く、両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、同年4月末までルソンの山中で泥沼の殺し合いを続けることになります。

The Golden Cross, Map 12 (pp.134)

また、第136連隊が健闘したとされるSkyline Ridgeについても、同書の第14章Skyline Ridgeに詳しい記述があります。連合軍はバギオ攻略と並行して、4月上旬からアグノ川沿いの村Tebbo (GooglemapのTabuあたり)より南東に伸びる渓谷(The Gap)と交差する、北東から南西に伸びる尾根に布陣を敷き、Skyline Ridgeと呼んでいました。

The Golden Cross, Map 23 (pp248)

『The Golden Cross』の図では北が左下に向かっているので分かりにくいですが、実際の地形に当てはめると次のような位置関係になります。縮尺の関係で図には描けませんでしたが、北西の方角にバギオがあります。また、アグノ川から直線距離で西に15kmほど進むと、カヴェニー大佐の担当していたラベイアグ(Labayug)があり、ラベイアグから更に北へ15kmほど進んだ場所にケノン道路のCamp 1があります。

渓谷(The Gap)とSkyline Ridgeの位置関係

第33師団は日本軍司令部があるバギオ攻略を目標としており、市の北西方面にあるNaguilian(ナギリアン)から第130連隊を展開しつつ、市の南方面にあるケノン道路から第136連隊を北上させていました。しかし、第130連隊と第136連隊だけでは戦力不足らしいことが分かってくると、1945年3月下旬に第123連隊と第129連隊を増援部隊として第33師団に組み入れました。*3

 3月28日、第130連隊の第2大隊と第3大隊は第129連隊にナギリアン道路を任せ、トラックでサン・マニュエルへ向かいました。そして4月4日、Tebboにいた第32師団の部隊と交代すると、同月8日まで四日間かけて周辺を探索し、第33師団司令官Percy W Clarkson少将に「Tebbo近辺に日本軍の姿はない」と報告します。第33師団司令官クラークソン少将は第130連隊の報告を受けると、4月11日に予定していたHill X (バギオ市の西側、ナンガリサンのアシン・トンネル周辺)への奇襲攻撃に備えて、第136連隊に以下の指令を出しました。*4

The Golden Cross CG issued orders to the 136th Infantry to replace the 130th on Skyline Ridge. Colonel Cavenee handed the mission to 2d Battalion, resting at Sison after weeks of heavy action along Kennon Road. A tour of duty on Skyline Ridge would give this combat-weary unit a chance to relax. (The Golden Cross, pp.250)

【拙訳】第33師団司令官は第136連隊に対し、Skyline Ridgeにいる第130連隊と持ち場を交代するよう指示した。カヴェニー大佐はこの命令を、ケノン道路での数週間におよぶ長い激戦を経て、シソンで休息を取っている第2大隊に任命した。Skyline Ridgeへの出張任務は、戦闘で疲弊したこの部隊に安らぐ機会を与えてくれるだろう。

当時、第136連隊の大部分は3月中旬からケノン道路のCamp 3を目指してBuebueエリアを制圧・北上し、3月末からケノン道路のCamp 3付近で戦線を後退させまいとする日本軍と膠着状態に陥っていました。*5 

4月9日、カヴェニー大佐がクラークソン少将からの指示を受けて、4月7日にケノン道路での戦いから離脱したばかりの第2大隊にSkyline Ridgeへ行くよう命令したのは、第2大隊ならすぐにTebboへ派遣できる中隊がいくつかあったためでしょう。また、第33師団指揮官のクラークソン少将が第136連隊に命令を出したのも、カヴェニー大佐の部隊ならSkyline Ridgeで兵を休ませつつ、地理的に同連隊が対応しているケノン道路での戦いに投入させやすいと考えてのことだったと思われます。

第136連隊第2大隊のF中隊は移動命令を受けると、リーダーのスース大尉(Captain Suess)に率いられ、H中隊から譲り受けた数台の重機関銃と共にTebboへ移動を開始しました。そして渓谷(The Gap)に沿ってSkyline Ridgeを目指し、尾根伝いに布陣していた第130連隊の第2大隊・第3大隊と持ち場を交代すると、第2大隊の司令部があった場所 (渓谷の西側の尾根)にF中隊の本部を設置します。*6  第130連隊の報告により、大隊2個の交代要員は中隊1個で問題ないと判断されるほど、Tebboは安全な場所だと思われていたのです。ただし、第130連隊からSkyline Ridgeを引き継いだ第136連隊F中隊は日本兵の襲撃をかなり警戒していたようで、土嚢や有刺鉄線、ブービートラップを周囲仕掛けるなどの対策を講じていました。『The Golden Cross』曰く、「ケノン道路での一か月から、彼[スース大尉]の部隊全体が、日本人はステージいっぱいのフーディーニたちよりもずる賢いと学んでいた (A month on Kennon Road had taught his entire outfit that the Japs were trickier than a stageful of Houdinis.)」そうです。(pp.251) ))

4月10日午前1時、Tebbo周辺に潜伏していた日本軍がSkyline Ridgeに夜襲をかけ、F中隊と交戦を開始します。午前10時すぎ、F中隊のスース大尉が第2大隊指揮官のヘイコック中佐と通信中に銃撃を受けて死亡。第136連隊第2大隊はすぐさまシソンで休ませていたE中隊およびG中隊を派遣してF中隊の救出を試みますが、いずれも失敗に終わります。ヘイコック中佐はラジオ通信で、午後8時になったらSkyline Ridgeを脱出するよう、F中隊のスタイン中尉に指示を出しました。午後7時59分、F中隊は自ら通信機器を破壊し、以降、翌11日午前6時に渓谷(The Gap)で待機していた第136連隊の他の部隊と再会するまで、生死も行方も確認できない音信不通状態となります。*7 

A nightmare was over. The return trip to The Gap had taken almost twenty- two hours of marching. Usually brusque Colonel Cavenee wept as the tattered infantrymen dragged themselves up to The Gap. He walked out to meet them, shaking hands with some, pounding others on the back. Trucks were waiting and the men were quickly driven back to San Manuel for rest, medical attention and re-equipping. (The Golden Cross, pp.258)

【拙訳】悪夢は終わった。渓谷とSkyline Ridgeの往復旅行は、ほぼ22時間にもおよぶ行軍であった。いつもは不愛想なカヴェニー大佐も、ぼろぼろの歩兵たちが這う這うの体で渓谷に戻ってくることに涙した。大佐は自ら出向いて部下たちに会いに行き、彼らと握手を交わしたり、背中を叩いたりした。何台かのトラックが待機しており、兵たちは迅速に[シソンの]サン・マニュエルへと回収され、医師による手当てと再装備がなされた。

4月11日の朝、ケノン道路のCamp 1で待機していた第136連隊第1大隊のA中部隊・B中隊が渓谷(The Gap)に到着し、同日夜にはC中隊・E中隊・G中隊も合流します。第136連隊は体勢を立て直して同月17日から反撃を開始しましたが、Skyline Ridgeに布陣した日本軍にはバギオから定期的に補給があったこと、Skyline Ridgeにいた日本軍がやがて北東のウゴ山(Mt. Ugo)方面へ逃れて戦い続けたことから、5月中旬ごろまで激しい消耗戦が繰り広げられました。*8 消耗戦ということは、弾薬や食料、医薬品などの物資を大量に消費しているにも関わらず、自軍の死傷者数の多さのわりに敵軍兵士の殺害や拘束が捗らないし、戦果も上がらないということです。

『The Golden Cross』の巻末に掲載されている戦死者リストによれば、同じ第33師団の中でも第136連隊が236名と突出して最も多く、次いで第130連隊が161名、第123連隊が96名となっています。第33歩兵師団が正式に動員解除されたのは1946年2月で*9、第136連隊が第33師団に組み込まれた1942年4月から約3年10か月のあいだに死亡した兵士全員分のリストとはいえ、第130連隊の約1.5倍、第123連隊の約2.5倍の死者数が出ているのは異様です。大規模な中隊をまるごと一つ失った以上の死亡者数で、毎週1名以上の兵士が死んでいる計算になります。

こうした第136連隊の状況から思い起こされるのは、浦茂「日本刀保存についてマッカーサー司令部との交渉経過(当時の日誌から)」のサザーランド中将に関する記述です。

陳情を重ねるにつれて、連合軍参謀長サザーランド中将は、ルソン島で日本軍の斬込隊に襲はれ、幕僚も南太平洋地域の日本軍玉砕部隊の白兵戦で日本刀には異状な恐怖と憎しみを抱いており、況や苛烈な戦場から敵国本土に直行してきた勝ち誇る荒武者の参謀連を納得させるには、厚く堅い壁があった。

日本刀可愛さ故のゼノフォビアが鼻につくものの、当時のGHQ(実質的に米軍)が日本刀をどのような武器として認識していたかを端的に表す描写です。浦氏の記述の主眼は「傲慢な勝者である米軍は、あまりに感情的で話が通じない」という状況説明にあるのでしょうが、むしろ「苛烈な戦場から敵国本土に直行してきた」サザーランド中将や他の幕僚たちの方が、日本刀の殺傷能力や武器としての性能を冷静に見極めて高く評価していたからこそ、民間人による刀剣保有を危惧していたと言えるでしょう。

戦後に提唱された「日本刀=芸術的・骨董的価値のある美術品」という言説が、佐藤寒山のような当時の専門家にとっても新時代のために考案された真新しい価値観であったという事実を踏まえれば、当時の進駐軍(特に南太平洋地域の前線で日本軍と戦っていた米軍兵たち)が「日本刀=軍事転用可能な高性能の単純武器」と考えるのは従来の価値観や戦場での日本刀の使い方に則した極めて常識的発想であり、突然日本刀の芸術的価値を理由に美術品としての保護を訴えるようになった日本政府こそが常識外れで前衛的な態度であることが分かります。そもそも日本政府は、なぜ日本刀をベースにした軍刀を兵士に装備させたのでしょうか?日本政府や日本軍に歯向かう「土人」や「鬼畜米英」を効率良く殺害・負傷させて、その殺傷能力で非植民地地域の人々や連合国の敵兵などを威圧するためではなかったでしょうか?*10

加えて、荒氏の論文にもあるように、日本政府は当初「軍人の私有財産にあたる家宝の日本刀は、民間武器の回収から外してくれ」と交渉していました。進駐軍にしてみれば「『家宝だから』というだけで、こんなに殺傷能力の高い武器を武器扱いしないでくれ、だと?そんな理由で連合軍が日本人に武器の保有を許可するとでも思っているのか?」と大層警戒する要求内容だったでしょう。

アメリカ軍は日本軍との戦いに際してフィリピンの抗日ゲリラ組織に大量の武器(主に銃器)を供与しましたが、日本の民間人は他国の軍隊から武器を供与されずとも、高性能で繰り返し使用可能な軍用武器たり得る日本刀がいとも簡単に手に入るのです。数百年前に打たれた日本刀であっても、きちんと手入れをしていれば充分な殺傷能力があり、そのような鋭い切れ味を持つ刀が長短を問わず日本国内に数千振、数万振と存在し、鍛えられてから歴史の浅い日本刀も含めれば数十万振にも及ぶことを考慮すれば、日本刀の持つ軍事的意義に対する浦氏の認識がいかに平和ボケした、キャリア10年以上のベテラン軍人にあるまじき甘っちょろい考え方であるかは論じるまでもありません。

1945年9月12日夜の有末精三機関長との会見で、サザーランド中将が「もし日本刀を許したなら、軍国主義復活の芽を残すことになり、日本人は草の根を分けても日本刀で復讐を企てるだろう」と「空しい返事」を述べたエピソードからも*11、日本におけるゲリラ組織の形成とゲリラ組織による日本刀の使用が、当時の米軍にとって重要な懸念事項の一つであったと推測できます。殊にサザーランド中将の所属していた第6軍は、南太平洋の島々で先陣を切って日本軍と戦っていたこともあり、1944年9月以降に戦地投入された第8軍よりも日本刀の殺傷能力や武器としての性能を強く実感していたのでしょう。日本刀の芸術的価値やら文化的価値やらを力説されてうっかり同情してしまうのは、南太平洋方面のニューギニア島インドネシア、フィリピンの戦線に参加せず、日本刀を装備した日本兵と直接殺し合った経験の乏しい軍人くらいではいでしょうか。例えば、Provost Marshal所属の憲兵司令官とか。*12

さて、木村京都府知事の手紙によれば、1945年12月上旬時点で、京都市内だけでも日本刀の保有者が547名、保有許可証の発行された日本刀が1121振存在していたそうです。全て単純武器の刃物とはいえ、人数で換算すれば中規模の1個大隊、日本刀の数で換算すれば大規模な1個大隊の隊員全員に支給しても、予備の日本刀が100振以上残る計算です。当時西日本を占領していた第6軍の司令部が京都市内に置かれていたことを考えれば、市内の警備を担当していた第136連隊のカヴェニー大佐が潜在的な軍事的脅威として危険視し、排除を命じたのは妥当な判断でしょう。また、武装解除された元軍人を含む民間人がゲリラ組織を編成し、日本刀を装備して第6軍司令部を襲撃するリスクを考えれば、爆薬や猟銃の類と同レベルの管理体制を整え、進駐軍によって継続的に監視すべき民間武器として扱うべきだと主張したとしても不思議ではありません。

時系列的に米軍が情報を得ていたとは思えませんが、日本国内ではポツダム宣言の受諾が決まった8月10日から8月下旬にかけて、宮城事件、国民神風隊事件、厚木航空隊事件、松江騒擾事件、川口放送所占拠事件といった、無条件降伏に反対する軍人たちによる騒ぎが相次いで起きていました。「日本刀で武装した元日本兵や右翼の集団が、進駐軍の司令部を襲撃するかもしれない」という想定シナリオは、1945年の日本で暮らす当時の日本人やアメリカ人にとって、21世紀を生きる我々が考える以上に現実味のある深刻なリスクだったでしょう。

メンテナンスさえしっかりされていれば、切れ味や殺傷能力をある程度維持したまま何度でも使える日本刀を、サザーランド中将が軍刀以外の刀剣も含めて「完全に排除するべき民間武器」と認識していたことは自然な流れです。また、サザーランド中将が日本兵に襲われたルソン島において、より前線に近い場所で部隊を指揮していたカヴェニー大佐がサザーランド中将と同じ考えを持っていたとしても不自然ではありませんし、ニューギニアインドネシア、フィリピンの最前線で日本軍と戦った直後であれば尚更、日本刀という武器に対して危機意識が高かったでしょう。

一点注意しておきたいのは、『The Golden Cross』の著者ウィンストン氏が第136連隊出身ということです。他の33師団隊員とチームを組んで書いた共著の可能性もありますが、どんなに頑張っても自分の属していた第136連隊に同情的になるというのが人情です。例えば1963年に出版されたRobert Ross Smith "United States Army in World War II The War in the Pacific: Triumph in the Philippines"では、第25章The Collapse of the Baguio Frontにおいて、4月12日から26日の14日間にかけて「第136連隊はなんの進展も遂げなかった (136th Infantry had made virtually no progress)」と評価しています。*13

1945年の4月中旬といえば、危うくF中隊を失いかけた第136連隊がSkyline Ridge奪還に向けて、The Gap周辺(ピジンガン山(Mt. Pigingan)~ウゴ山(Mt. Ugo)の中間あたり)の山中で日本兵を相手に戦っていた時期にあたります。『The Golden Cross』を読んでいると「第130連隊がヘマしたツケを払わされてるのに、「第136連隊は進展がない」とか言われても…そもそもケノン道路での戦闘は日本軍をバギオの南側に足止めするためだし…」とつい考えてしまいますが、特定の個人の視点に寄り添いすぎると見えてこない景色があるという良い教訓でしょう。

オリエンタルな処刑道具としての日本刀

第二次世界大戦中の英語圏(今回調べた範囲ではアメリカ・イギリス・オーストラリアの三か国)では、日本兵による戦争捕虜および現地民の斬首がたびたび話題となっており、ニューギニアで戦争捕虜となった豪州航空兵が斬首刑に処された事件(1943年10月)グアムでチャモロ族43名の首なし死体が見つかった事件(1944年8月)グアムで児童13名の首なし死体が見つかった事件(1944年12月)児童3名を含む22名のアメリカ人一般市民(宣教師の一団)が殺された事件(1945年6月)、など、日本刀を用いた残虐行為(日本兵による被害者の斬首)の話題には事欠かない状態でした。1945年5月にイギリスのデイリー・ミラー誌が公開したシフリート軍曹の処刑写真は特に注目を集め、日本刀=斬首刑に使われるオリエンタルな軍用武器、というイメージが英語圏で定着していきます。

また、第二次世界大戦が終わると、戦時中の日本兵による戦争捕虜および現地民の殺害行為が戦争犯罪として調査対象になり、1943年10月に報道された豪州航空兵処刑事件の殺害犯特定のニュース(1945年10月)オランダ人捕虜2名およびインドネシア人2名を殺害した罪で日本兵が死刑になったニュース(1945年12月)イギリス兵12名を殺害した罪で起訴されていた日本兵5名が自殺したニュース(1946年1月)インドシナでフランス人捕虜を殺害した日本兵の裁判に関するニュース(1947年1月)などが報道されました。

なお、ここで挙げたニュースはいずれも被害者たちが日本兵に斬首された事例ですが、日本刀が使われていない、斬首以外の殺人行為に関する報道ももちろんありました。例えばミャンマーでイギリス人捕虜およびインド人捕虜計25名が銃剣で殺害された事件(1943年4月)ミャンマーの病院で医療関係者や入院患者30名以上が殺害された事件(1944年2月)フィリピンのデ・ラサール大学で約70名が殺害された事件(1945年2月)などです。

このような残虐な事件は、きっと日本軍による管理・統制の甘い植民地エリアに限った話だろうと思いたくなりますが、日本兵による戦争捕虜の殺害は日本国内でも珍しいことではありませんでした。斬首による処刑は射殺・斬殺による処刑と並んでそれなりにメジャーな方法の一つであり、また、進駐軍が日本に上陸する前に証拠隠滅を図って罪を逃れようとした者たちもいました。日本国内でさえ市民による告発がなければ判明しなかったであろう事件が何件もあることを踏まえると、告発されず事件化もされなかった日本国外の殺人事件はいったいいくつあるのだろうと疑問に思わずにいられません。

www.powresearch.jp

その一方で、日本兵による惨たらしい殺戮行為が報じられるのと並行して、ルーズベルト大統領が日本刀を手に入れた話(1942年3月)や、パプアから日本刀を持ち帰ったオーストラリア兵の話(1943年5月)ニューギニアから日本刀を両親に送った兵士の話(1944年2月)オーストラリア兵に日本刀7000振が記念品として配られる話(1945年11月)イギリスのマウントバッテン卿がオーストラリア首相に日本刀を見せた話(1946年3月)、といった、連合国軍にとって"華々しい"ニュースも報道されました。こうした記事における日本刀の扱いは①献上品あるいは褒美としての意味を持つプレゼントか、②戦利品としての意味を持つ記念グッズ、の2種類に大別できるようです。後者に関しては個々の部隊や兵士によって日本刀の入手経緯が大きく異なり、日本軍の放棄した拠点で偶然日本刀の発見したようなケースは武功の証明になりませんでした(単なるラッキーなお宝発見のニュースとして報じられました)が、日本兵との戦闘を経て入手されたケース、特にその戦闘行為で日本兵が死んだ場合は、連合国軍兵士の勇敢さ・勇猛さが讃えられ、連合国民間人の士気高揚に一役買っていたようです。

占領期のアメリカ軍やアメリカ兵が日本刀に対してどのようなイメージを持っていたかを理解するには、こうした戦中・戦後の海外における日本刀関連の話題も丁寧に拾っていく必要があります。しかし、残念ながら近年の日本語圏における語りでは、連合軍が日本に勝利した1945年8月15日以降に時代を限定し、主に日本人の手によって書かれた「いかに素晴らしい名刀の数々がGHQのせいで失われたか」というロマンチックな悲劇的話題ばかりが好まれるようです。GHQによって回収・廃棄されることなく保護された日本刀の芸術的価値の高さを解説することに腐心はしても、日本刀の武器としての性能や軍事的意義について深く考えを巡らせようとする考察は多くありません。

戦後生まれの世代が85%を超え、老若男女を問わず、博物館に飾られた"由緒正しい"、"折り紙付き"の日本刀しか目にしたことのない日本人が多数を占める2023年現在において、日本刀を文化的な遺産、伝統工芸品、あるいは先祖代々の家宝として敬って遇することはあっても、戦場で使われる高性能の単純武器、殺傷能力の高さゆえに軍隊が採用した強靭な刃物として扱うこと・考えることはほとんどありません。日本刀を人殺しの道具として扱うことに不慣れな現代人が、民間武器の回収に際して進駐軍と敵対関係にあった日本政府関係者の書いた、民間人の武装解除と非軍事化の軍事的側面を排した情感たっぷりの嘆願文に感化されてしまっても無理のない話です。

刀剣回収の命令を出した人物の名前も経歴も、その人物が第二次世界大戦中に何を体験したかも不明な状態で、戦後占領期の動向を1〜2ヶ月ほど表層的に追いかけた程度にもかかわらず、日本政府関係者による一方的な証言や資料のみを根拠として、京都市中の日本刀1100余振に国宝が20振近く含まれていたという理由で「きっと国宝目当ての米兵による強奪未遂事件なんだ」と吹聴するのは勇み足が過ぎるでしょう。資料の調査能力においては素晴らしいのですが、目の前の資料を深く読み込みながら他の文献に書かれた情報も参照しつつ仮説を練り上げる行為と、目の前の資料からは明らかに読み取ることも推察することもできない話を成立させるために都合の良い情報だけを抜き出してきて自説を補強する行為は似て非なる行いです。

ちなみに京都市中の日本刀全1121振に対して、恩賜京都博物館に保管されていた国宝は20振程度なので、京都市内全体の約1.7%が国宝の日本刀ということになりますが……この程度で「「全」美術刀剣の回収が目的」とお宝目当ての泥棒嫌疑をかけられるなら、日本全国ほぼ全ての進駐軍が国宝乃至重要文化物目当ての泥棒軍団ということになるでしょう。1945年11月時点で京都市内にある日本刀は全て日本政府の鑑定・保有許可証発行を受けて美術品扱いとなっているのですから、京博の刀剣が国宝・重要文化物である点をことさら強調して「「全」美術刀剣の回収が目的」と論理展開するロジックもよく分かりません。

そもそも美術的価値のある刀剣だから回収しているのではなくて、軍事的脅威のある民間武器(集合体)だから回収命令を出してるのだと思いますが……進駐軍にとって京都市内の日本刀1121振には軍事的リスクなど存在しない、という判断なのでしょうか。憲兵司令官殿が許可しているのだから第6軍としてもGHQとしても問題ない、問題があると考えているカヴェニー大佐の方がトラブルメイカーの異端者、みたいな?(第6軍内部でもGHQの幕僚レベルでも、1945年12月時点では日本刀の扱いについて統一見解など存在していませんし、1946年1月に至ってはGHQ(第8軍)が日本政府に第136連隊とほぼ同じ要求を出しているのですが……日本政府が美術品扱いしている刀剣の保護に積極的でないどころか、武器回収のプレッシャーが増してます……。)

「第136連隊は他の1100振余りの日本刀のほとんどに見向きもせず、刀剣未提出者の家や施設に回収部隊を派遣することもしなかったのに、恩賜京都博物館の刀剣だけは強引に回収しようとした」とか、「国宝や重要美術物といった貴重な刀剣の話題が出るたびに、カヴェニー大佐は目の色を変えて異様な執念深さを見せた」とか、そういう当事者の証言や記録が複数提示されていれば、第136連隊の真の目的が京博に保管されていた国宝の入手にあったと言えると思うのですが……せめて「12月21日の回収期日には、カヴェニー大佐自ら京博に乗り込んできた」くらいインパクトのある話でもあれば、ね……。読む人が読めば、荒氏の論文を確認した時点で、第136連隊の11月の指令がカヴェニー大佐の独断による暴走行為であったかのような仮説を唱えられるほどの根拠はないように感じると思いますが……とはいえ、「マッカーサー司令官が大包平を欲しがった」という出典不明・真偽不明の伝説が、本当にあった出来事かのようにたびたび言及される日本刀界隈のことを思えば、「私利私欲のお宝目当てで刀狩りを強行するアメリカ兵のカヴェニー大佐」という風説もまた、一部の人々にとっては説得力のある"逸話"の一つなのでしょう。ま、そういう話が好きな人は多いですからね……「海外が認めた日本人」とか「世界が認めた日本の何々」とか、日本人ってそういうの大好きじゃないですか。(突然の主語デカ構文)

普段から『永遠のゼロ』とか『ラーゲリより愛を込めて』とか、『VIVANT』とか『YOUはなにしに日本へ?』とか『世界!ニッポン行きたい人応援団』とか『和風総本家』とか、国粋主義レイシズムとニッポンバンザイ精神の滲み出るナルシシズムに満ち満ちた言説をできる限り避けながら暮らしているのですが、「久々に"こういうの"読んじゃったな……」と変な意味で感慨深いです。浦茂のような日本人が「日本刀の価値も分からんアメリカ人が、名刀までもをガソリンで燃やしたり日本海に沈めたりして、ひどい!」と憤慨する時代から、戦後生まれの戦争を知らない世代の日本人が「日本刀の価値も分からないアメリカ人のくせに、文化財級の日本刀だけは力尽くで奪おうとして、ひどい!」と憤慨する時代に変わっただけにしか見えません。そしてそういう憤り方をする人たちが視界に入るたびに「第二次世界大戦中の日本刀って、非植民地の人間や連合軍の兵士を刺したり斬ったり殺したり、死体をバラしたりするための武器であることにこそ価値があったんですよ。当時の日本人は彼らを土人だの鬼畜米英だのと呼んで、人間扱いしてませんでしたけどね。財閥やら華族やら"古き良き"寺社仏閣やら、大政翼賛の連中が後生大事に秘蔵していたお綺麗な籠の鳥の話ばかりしていないで、帝国陸軍内務省に都合良く打たれ、使われ、"真に美術的価値のある刀剣"とは認められずに、あるいは認められても後ろ盾の弱さから見捨てられた無数の刀たちのことも少しは考えたらどうです?」と宗三左文字が耳元で囁いてくるのですが……え?幻聴??解釈違い???ま、そんなこともありますよね〜。

*1:The Golden Cross, pp.85

*2:The Golden Cross, pp.135

*3:The Golden Cross, pp.247

*4:The Golden Cross, pp.249-250

*5:The Golden Cross, pp.148

*6:The Golden Cross, pp.250-251

*7:The Golden Cross, pp.251-258

*8:The Golden Cross, pp.272

*9:The Golden Cross, pp.378

*10:例えば茶道具の抹茶茶碗について話す場合、200年前に焼かれた茶碗だろうが400年前に焼かれた茶碗だろうが、抹茶を点てて飲むための器としての価値を意図的に無視した語りはナンセンスの極みでしょう。あまりにも作られた時代が古くて壊れやすい、保存状態が悪い、などの理由で実用できない抹茶茶碗や、器の中に金蒔絵を施すなどして完全に観賞目的で作られた非実用品は例外としても、基本的には①抹茶を点てるための調理器具、②抹茶を飲むための食器、③観賞用の美術品、としての役割を意識した語りになるはずです。日本刀ならばさしずめ、①人間や動植物を切ったり殺したりするための武器、②保有者の地位や権力・財力をアピールするための装飾物、③観賞用の美術品、あたりになるでしょうか。現代では②装飾物や③美術品としての要素ばかりが脚光を浴びせて、①武器としての要素をあまりにも疎かにしすぎている(関心を持っているのはミリオタくらいでは?)のですが、その方が日本人や日本刀の後ろ暗い近現代史について触れずに済んで気持ちが楽なのかもし知れませんね。あまりにも歴史背景が見えすぎると萎えちゃいますから。でも私たち審神者がエンジョイしてる刀剣乱舞って、刀剣男士が歴史修正主義者と物理的にザクザク刀で斬り合って、最終的には戦闘相手を倒す(殺す)のが目的で、殺傷能力の高い武器としての日本刀が大活躍するゲームなんですよね……。占領期における日本刀周りの建前と本音の違いをきちんと理解している人間であれば、GHQによる非軍事化と武器回収の文脈や日本刀の武器としての要素にもっと真剣に向き合って考えると思うのですが……とはいえ、私が個人的にそう思っているだけなので、そういうアプローチ方法は世の中の常識ではないのかもしれません……。

*11:浦茂「日本刀保存についてマッカーサー司令部との交渉経過(当時の日誌から)」

*12:戦時中のProvost Marshalは、前線部隊とは任務地や任務内容が異なり、移民一世や二世の日本人・日系人、戦争捕虜の日本兵を収容所で管理する業務や、米軍兵の違法行為を取り締まる業務が中心でした。収容者らが反乱を起こして逃亡し警備兵に射殺される収容所がある一方で、投降を呼びかける日本語のビラを作るために収容者と米軍が協力関係を築いていた収容所もありましたが、軍装した日本兵の集団と正面からぶつかり合って戦闘行為に及んだ経験は多くありません。少しの油断が命取りになる南太平洋の密林地帯で、日夜日本軍と殺し合っていた前線部隊の元戦闘員にしてみれば、武装解除した元日本兵が民間人として暮らす日本社会に「芸術的価値があるから」という理由だけで刀剣保有を許可するなど言語道断でしょう。

*13:United States Army in World War II The War in the Pacific, pp.487