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千田有紀「「女」の境界線を引きなおす」再読

以下、この記事を書くにあたり目を通した論考・ブログなど。

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」『現代思想3月臨時増刊号(総特集)フェミニズムの現在』

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで - ゆなの視点

未来人と産業廃棄物――千田先生の「ターフ」論文を読んで|夜のそら:Aセク情報室|note

「性暴力被害にあったから男性の身体が怖い。だから女子トイレを使ってほしくない」という言葉。 - Togetter

「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について|千田有紀|note
※初出時タイトルでは「誤読の要約」ではなく「虚偽の要約」

千田氏の応答に対して - ゆなの視点

トランスジェンダーのトイレ使用の在り方に関する、賛否両論の議論 - Togetter

 

上記に一通り目を通した上で、千田さんの記事に対する批判等をいったん全部忘れてから、改めて「「女」の境界線を引きなおす」を読んだ感想を書いてみよう、というのがテーマです。

と言いつつ、再読にあたって設定した読解の切り口は、「どこに誤読させやすいポイントが潜んでいると感じるか」です。

雑感ですが、本文8000字という字数制限に対して、論考内でカバーしようとする範囲が大きすぎるから説明不足な部分が出てくるし、論理的に飛躍しているように見える箇所があるのでは? と思いました。

ただ、論考の終盤に提示される「トランス排外的だけどトランス差別主義者ではないフェミニスト」VS「ターフ狩りでフェミニストに物理的危害を加えようとするクレイジーなトランス女性」の対立構図がインパクト強いので、「この論考を読んでシス女性とトランス女性が連帯するとか無理では?」と思いました。


厳密には「フェミニスト」VS「正体不明の犯罪者」と要約すべき箇所です、が、たとえば「非白人排外的な人に「レイシスト」のレッテルを貼って危害を加えようとする人たち」という説明を読んで、「犯人は白人だか有色人種だかわからんな!」という結論に真っ先に到達する人がどれだけいるのかな、と思います。「犯人はクレイジーな有色人種なんだろうな」と、なんとなく考えてしまう人の方が多いのではないでしょうか。

はっきり言って、この論考を読んで、シス女性とトランス女性は連帯可能である、と思える読者がどれだけ生まれるのか……むしろ「シス女性の不安を顧みず、シス女性のテリトリーに入り込もうとする凶暴なトランス女性」のイメージが強調されており、シス女性がトランス女性を敬遠するのは仕方がない、と言い訳しているように読める論考だと思います。

ちなみに、私自身はフェミニズムジェンダースタディースの専門家ではないのですが、どの程度「専門家ではない」のかというと、「(オリエンタリズムや欧米における芸者/ゲイシャ表象、欧米映画における日本人女性・アジア人女性の表象に関心があるのでなんとなくフェミニズム界隈の動向も視野に入れてはいますが、フェミニズムジェンダースタディーズ関連の研究業績はないし大学で講義をしたこともないので)専門家ではありません」というレベルの非専門家です。

フェミニズムについて完全にノー勉というわけではないのですが、そうかといって長年専門で研究調査している研究者ほど知識があるわけではなく……という、なんとなくフェミニズムかじってます~な普通の一般人が、なんとなーく感想を書いてる、という程度に思っていただければ幸いです。

※追記。千田論考の「読みにくさ」の原因になっている飛び石話法ですが、私は映画的な文法だな〜と思いました。一見関連性のなさそうな映像をぱっぱっぱっと連続で見せて、オーディエンスにナラティブを脳内補完させるアレです。千田論考のナラティブについて論じるためには「飛び石の並びがどのような連続性を持っているのか」を考える必要があると思うのですが、飛び石のつながりを明示しない文章って、はっきり言って論文評論批評文に向いてないんですよね。論考なんだから基本的なナラティブは筆者が明示しすべきだし、その「筆者が明示すべき基本ナラティブ」の道筋を読者に脳内補完させるような書き方をするな、と思います。

 

以下、本題。

 

①導入部分で引っかかった点
(P246)「いまや「ターフ」は中傷の言葉であり、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われている――日本でも、同じような状況が起こりつつあるのではないかと危惧している」

長い表現を短縮・省略した言葉が侮蔑語として使われやすい法則があるそうなので(スティーブン・ピンカー『思考する言語』で読んだ気がする)、「ターフ(TERF)」が「トランス排外的なフェミニスト」を侮蔑する言葉として使われる状況が生まれていたとしても、とくに不思議ではないです。

個人的に気になるのは、「いまや「ターフ」は…使われている」という文言によって、「ターフ」の第一義的な意味が、すでに「〈侮蔑語〉トランス排外主義的ラディカルフェミニスト」に乗っ取られてしまったのではないか、と読者に誤読させる書き方になっていることです。

一応、註(3)で「念のためこの引用には…申し添えておく。」とフォローが入れられていますが、この点については本文内で言及すべきだと思います。「ターフが侮蔑語か否かの統一的見解はまだ出ていない」という情報は、本文内でも言及すべき点だと思います。

読者が大学院生や研究者であれば、註にまで目を通すことを前提として本文を構成するのは普通だと思いますが、アカデミックな業界の外にいる一般読者に向けて書くのであれば、この書き方は不親切でしょう。

字数制限の関係で記述できなかったとするのであれば、テーマ設定が甘いというか、過不足なく情報を提示してなるべく誤読させないような表現をしたうえで8000字の論考に収まる題材に絞るべきだと思います。

あるいは、「このAという問題には1と2と3という切り口があるが、本論考では2の切り口から考えて、1と3は別稿に譲ることにする」としたうえで8000字書くとか。 

 

②トランス女性のトイレ・風呂の話題から、「バンクーバーのシェルター破壊事件」へのつながり

「(シス女性のみを対象とした、シス)女性用トイレ」と「(シス)女性用トイレを利用するトランス女性」の話をした直後に、章立てが区切られているとはいえ、「(シス女性のみを対象とした、シス)女性用シェルター」が何者かによって破壊される、という事例を出すのは、文脈上迂闊ではないでしょうか。

この文章を読んだ読者に、「(シス女性のみを対象とした、シス)女性用トイレを、トランス女性に破壊されるのではないか」「(シス女性のみを対象とした、シス)女性用の風呂を、トランス女性に破壊されるのではないか」と連想させる余地が大きい書き方だからです。

「裁判所が破壊され、「女性は人間である」というスローガンが書きこまれる騒ぎがあった」という文言を読み、「犯人は男性かもしれない」と考える人は少ないでしょう。

「「女性は人間である」と主張しているのだから、きっと当事者である女性がやったのだろう」と(好むと好まざるとに関わらず)連想してしまうのではないでしょうか。

同じように、「(シス女性のみを対象とした、シス)女性用シェルターが破壊され、「トランス女性は女性である」というスローガンが書きこまれる騒ぎがあった」という情報を目にした読者が「「トランス女性は女性である」と主張しているのだから、きっと当事者であるトランス女性がやったのだろう」と(好むと好まざるとに関わらず)連想してしまうのは、致し方のないことだと思います。

この点については、一応、第3章「ターフ探しがもたらすもの」の終盤(P254上段末尾)で「これが誰によってなされたかはわからない。トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらある。」と軽くフォローが入れられています。

が、論考の最後の最後にちらっと言及されるだけなので、言及のタイミングが遅すぎると思いますし、言及する際の比重があまりにも軽いので、「トランス女性は暴力的な手段も辞さないやばい連中なんだろうな」と読者に勘違いさせやすい文章だと思います。

このフォローは論考全体の終盤ではなく、バンクーバーのレイプ救援・女性シェルターについて初めて言及する際に提示するべき情報でしょう。

もしくは、バンクーバーのシェルター破壊事件ではなく、「トランスを口実とした犯罪行為で、のちに非トランスの犯人が逮捕された事件」を例として提示するのが適切ではないでしょうか。

「トランス女性が犯人だとは言ってない、でも犯人は逮捕されてないから本当にトランス女性じゃないのかは分からない、本当はトランス女性かもしれない、でもトランス女性じゃないかもしれない」という、犯人の正体がシュレディンガーの猫状態になっている事件をわざわざ例に持ち出すのは、読者の不安を煽るだけであるように思います。

ましてや「トランスに負担を強いる形で、トランスのトイレの問題は「問題がない」ことになっている」という周囲の人たちを提示した直後とあっては、なおさら「日常生活で負担を強いられているトランス女性が、いつか(シス)女性用トイレを破壊するのではないか」と示唆している文章だと読まれてしまっても致し方ありません。

 

③(P249上段)日本の公衆浴に対する留学生の意見の引用
「全裸で同性の他人と風呂につかるという日本的な入浴方式は確かにまれなものであるようで、合宿の前などには欧米からきた留学生はかなり露骨に驚きと嫌悪の情を示す。」

この留学生たちが想定する「同性」は、「(シス男性である)同性」「(シス女性である)同性」であって、「(トランス男性である)同性」「(トランス女性である)同性」は想定されていないのではないか? と疑問に感じます。

にもかかわらず、「((…)[性別適合]手術[の]要件がなくなったら、ペニスのある女性が女湯に入ることを認めなくてはならないのではないか、という)将来を見据えているからこそ不安が掻き立てられているのではないか」と記述した文章の直後に「全裸で同性の他人と風呂につかる…驚きと嫌悪の情を示す。」という文章を置くのは、文脈上うまく接合しないのではないでしょうか。(それとも「シスの同性ですら驚きと嫌悪の対象なのだから、況やペニスのあるトランス女性おいてをや」ということなのでしょうか?)

また、こうした銭湯・スパなどの公衆浴場においてトランス女性を取り巻く問題は「浴場」に限った話ではなく、「脱衣場」という空間においても発生するのではないでしょうか。

なぜなら、「(シス女性用の)女湯の脱衣場で着替え」なければ、「(シス女性用の)女湯の浴場に入る」ことはできないからです。

しかし、この「トランス女性の着替え」の問題について、註(11)ではフォローされておらず、まるで着替えの問題が存在しないかのように扱われています。

海外のスパであれば、下着や水着を身に着けられるので回避可能な問題である、という風にみなすのは楽観的すぎますし、「日本的な入浴方式が稀だから起きる問題」であるようにも思えません。

この公衆浴場の問題で想定されているトランス女性が、仮に「ペニスのある女性」であったとしても、上半身の手術が済んでいるか否か、ホルモン治療の進度、化粧、髪型などの要因によって、着替えの問題を避けて通れない人が出てくる以上、脱衣場の問題は楽観的に看過できないのではないでしょうか。

 

④(P249下段)「強姦」の定義とレトリック~トランス女性の存在に「混乱」?
「「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することによって成立し、それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかった」
「男性の身体の定義を挙げろといわれたら、多くのひとが「ペニスがあること」を挙げる社会で、「男性器がついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない。」

まず、「「強姦罪」は、女性器に男性器を挿入することに【限られ】、それ以外は「強姦」という「犯罪」として認められなかった」と表現した方が、旧来の「強姦罪」の定義の狭さを読者に強く印象づける文章になるのではないかと思います。

また、フラワーデモのきっかけとなった「加害者が被害者の女性器にむりやり男性器を挿入していたにもかかわらず、「強姦」という「犯罪」が認められなかった」日本の裁判事例などについて考えると、「強姦罪」の変遷とペニス挿入・異物挿入の問題は、もっと字数を割いて丁寧に分析するべきではないでしょうか。(むしろ、このテーマだけで8000字以上書いても良かったのでは?)

シス女性の「不安の源」として「男性器」にばかりスポットライトが当たるこの論考を読んでいると、「シス女性がペニスのあるトランス女性に恐怖心を持ってもしかたないよね。だって強姦されるのは怖いもの」と読者が考えてしまったとしても仕方がないと思います。

ただ、千田さんはP249下段で「シス女性はペニスを有するトランス女性が怖いから、トランス女性を排除しようとしてしまう」とは書かずに、「(シス女性は)「男性器がついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚える」と表現しています。

「怖い」「恐れ」といった恐怖心の類と「混乱」とは、明らかに意味の異なる感情・状態を指すにもかかわらず、です。

私はここに「論理のすり替え」が発生しているように思います。

直前の文章では「「貞操」――「処女性」をはかるメルクマールが、男性器による女性器への挿入と考えられている社会で、[シス]女性が男性器を恐れるのは故なきことではない。」と、「なぜシス女性はペニスを恐れるのか」が解説されていました。

また、直後の文章では「[シス]女性たちがトランス女性と風呂やトイレを共有するときに、不安の源として「[男]性器」に目が行くのは、これまた理由のないことではないのだ。」と、「シス女性がトランス女性のペニスに不安を抱くこと」を肯定していたはずです。

前後の文章の流れに素直に従うならば、「シス女性はトランス女性のペニス(≒男性器)を恐れ、不安に思うからこそ、トランス女性を排除しようとしてしまう」という趣旨の文章が、前後の文章のあいだに入るはずです。

なぜ、「(シス女性は)「男性器がついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に恐怖を覚える」という表現が放棄され、「(シス女性は)「男性器がついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に混乱を覚える」という、文脈上のうまく接続しない(あるいは説明不足により前後の文脈がうまくつながらない)表現が選ばれてしまったのでしょうか。

 

(とはいえ、仮に「(シス女性は)「男性器がついているけれども女性だというジェンダーアイデンティティがあるから女性」という存在に恐怖を覚える」と書いたとすると「それってトランスフォビアなのでは?」とツッコミを入れられてしまう文言ですよね…)

 

ジェンダー論の第三段階

第2章のタイトルにもなっている「ジェンダー論の第三段階(第三期)」は、箇所によって同意できたり、同意できなかったりしますが、千田さんの提唱する「第三期」の内容は、部分的にであれば了解可能なのではないか?と考えています。

「第一期」「第ニ期」と異なり、代表的なフェミニストや思想家の名前が引用されていない点を考えると、千田さん独自の分析のみに準拠しているのかもしれませんが、千田さんが引用していないだけで、他にも似た分析をしている人がいるのかもしれません。

もっとも、第2章「ジェンダー論の第三段階」のテーマだけ取り上げて8000字費やしてもよいのではないかと思いますが…。

 

⑥(P251上段)「第三段階」で主張される「身体変容の自由」
「こうした第二期のジェンダーアイデンティティや身体の構築性を極限まで推し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由に行われるべきはないかという主張[が、第三期の特徴]である。」

千田さんの論じる「第三期」の特徴は、言い換えると、「自分の肉体を、人工的な手段によって人為的に変化させることが、タブーではない時代」と表現できると思います。

そういう意味では、「第三期」は「性別を人工的に変更することがタブー視されない時代である」、と換言することもできます。

私は、第三期を「人工的・人為的な身体変容(性別含む)をタブー視しない時代」と定義した場合に限り、千田さんの段三段階の説明について同意してもいいのではないかと思っています。I think it is safe to agree on this specific point.です。

と同時に、「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなど」の「身体変容の自由」のノリの軽さと、ホルモン治療や性別適合手術などの「身体変容の自由」のノリの重さを考えると、おいそれと同列に扱ってはいけないのではないか、とも。

っていうか、P252下段L14-16に「(実はすべてのひとにとって、その[セルフ・アイデンティティの選択という]自由の行使はそう容易でもなければ、均等に分配されているわけでもないことは別稿に譲るとして)」って書いてあるので、千田さんもこの「身体変容の自由」のノリの軽さ・重さについて意識しているのではないかと思うのですが、ソレたぶんいま別稿に譲っちゃダメだったやつぅ~~~~!!そこ「別稿に譲」っちゃったからいま話がこじれてる理由の一つな気がするぅぅ~~~~~~!!!と考えております。(たぶん字数制限の問題だと思いますが、だったらもっとテーマを絞って以下略)

トランスの人々にとっての「心の性別に一致した肉体を獲得するための一連の行為(ホルモン治療、性別適合手術など)」が、「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥー」のようにお気軽に選べるような選択肢ではない、という点は、絶対に看過できないと思うので。

自分の心の性別に異性である肉体を一致させたい、と願うトランスの人たちにとって、自分がそれまでの生活で演じてきた・築いてきた「男性としての自分」「女性としての自分」や、周囲との関係に決定的な変化を起こさなくてはいけない(しかも周囲が受け入れてくれるのか不明)、という状況がすでにかなり苦痛ではないか?と思いますし、ホルモン治療や性別適合手術をするかどうかは、人によっては生きるか死ぬかと同レベルの大問題でしょう。

金銭的な問題もあれば、薬が体質にあうあわないなどの肉体的な問題もあるでしょうし、物理的に自分の身体が変化することによる精神的なショックの問題もあると思います。

そういう諸々を踏まえた大決断を必要とする「身体変容の自由」と比べたら、たとえば私の「わき毛をレーザー脱毛」という「身体変容の自由」は柴犬の寝息にすら吹き飛ばされる軽~いノリの「身体変容の自由」でしかなく、トランスジェンダーの人々が性別違和を解消するための「身体変容の自由」と同列に語ることはできないし、語るべきでもないと思います。

本文で例示された、美容・ファッション目的の「身体変容の自由」は、トランスの人たちにとっての「身体変容の自由」というよりも、ドラァグクイーンドラァグキングたちにとっての「身体変容の自由」のイメージに近いのではないでしょうか。


もっとも、ドラァグクイーンドラァグキングたちの「身体変容の自由」が軽いノリに見えるのは、舞台上で明るく楽しそうに既存のジェンダーの枠組を越境する彼ら・彼女らの姿に限定した場合だと思いますが。

 

⑦トランス女性のトイレ問題
【部分要約】トランスの人々を「肉体の生物学的な性別」によって「男性/女性」に区別することは、もはやできない。では、どういう基準で彼ら・彼女ら(ここでは「トランス女性のスポーツ選手たち」)の性別を「男性/女性」の「女性」にカテゴライズすることができるのか。いろいろと検討されてきた結果、テストステロン値によって「男性/女性」を分けようとしたケースがあった。しかし、「テストステロン値」という基準もまた不完全な基準であった。普遍的な「男性/女性」のカテゴライズ方法は未だ発見されていない。

「こうした社会において、トランス女性のトイレや公衆浴場の利用といった日常生活における「男性/女性」のカテゴリ分けはどのようになされるべきであろうか。」と話が続き、スウェーデンユニセックストイレの紹介で「必ずしも「男性だから(シス)男性用トイレに入らないといけない」「女性だから(シス)女性用トイレに入らないといけない」というわけではない」という文脈ができたところで、「トランス女性だからといって(シス)女性用トイレに入らないといけないわけではないのではないか」という問題提起が出てきます。

私は、この「トランス女性だからといって(シス)女性用トイレに入らないといけないわけではないのではないか」という問題提起が、トランス女性を「従来の「女性」トイレ」から締め出すことを容認しているように感じられました。

「トランス女性を(シス)女性用トイレから排除しても構わない」とはっきり書かれた文章ではないのですが、「なぜそこ[トランス女性が安心安全を感じて使用可能なトイレ]が従来の「[シス女性用の]女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。」という問題提起の仕方は、今後議論が進められていくなかで、(シス)女性の安心安全を確保するためにトランス女性を(シス)女性用トイレから排除する結果になったとしても仕方がないと論じている、と批判することが可能な文章になっていると思います。

スウェーデンユニセックストイレの紹介(トイレ空間における「男性/女性」区分の解体)は、読者に「日本でユニセックストイレを導入するのはちょっと非現実的そうだ(「男性/女性」区分を解体したトイレ空間の導入は、日本だと難しい)」と考えさせる文章ですが、このユニセックストイレの話をもってして「「なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。」という文章は、トイレ空間における「男性/女性」区分の解体を提唱している」と考えるのは正直苦しいものがあります。

もちろん、前後では「そもそも「女性が安全にトイレを使うとともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」でもあるべきだ。」「皆が安全だと「感じられるか」どうか」が問題である」と説明されているのですが、この論考では「シス女性のペニスへの恐怖(シス男性かトランス女性かは不問)」には言及しても、トランス女性が現在の環境で感じ得る恐怖、たとえば「あまりひとの来ないトイレで暴行・強姦されたらどうしよう」と不安に感じているのではないか、といった点については触れられていません。

「シス女性のペニスへの恐怖(シス男性かトランス女性かは不問)」「シス女性の安心安全の問題」が大きく前景化された文章において、後景化された「トランス女性の安心安全の問題」を指して「すべての人の安心安全について考えています」と言われても、ただのポーズだと思われても致し方ないのではないでしょうか。

 そのような文脈において「私たちに必要なのは、どのような分割線を引くことで、すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的なコストを支払い、変革していくことに合意することではないのだろうか。」と提案されたとしても、その「すべてのひと」の中に、トランス女性・トランス男性は本当に含まれているのだろうか、と疑問に持たざるを得ません。

トランスの人たちに「相応の社会的なコストを支払」わせることで(シス)女性の安心安全を確保する、と読者に誤読させる余地は、明確に排除した書き方にすべきであったと思いますし、現時点でトランスの人たちが抱えている「あまり人の来ないトイレに行く」などの不便・不都合を軽視した文章になっていると思います。

(「シス男性が感じ得る恐れ・不安」についても触れる必要があるように思います、が、そもそも8000字の論考に収まるようなテーマ設定ではないので…)

 

⑧トランス差別とトランスへの差別意識について
(P254上段)「トランスに対する差別意識を持っていないにもかかわらず、トランス排除的であるといわれる人たち」

本文で提示されたナラティブに従えば「本人に差別意識はないのに「ターフ」の烙印を押されたフェミニストたち」と言い換えることが可能だと思いますが、「差別意識の有無」と「差別的行為をしたか否か」を区別して考える必要があることは、「女性を差別するつもりはないから差別じゃない」と弁明する聖マリアンナ医大などの差別者に対し、フェミニストが繰り返し指摘してしいた点ではないでしょうか。(差別意識がなければ、女子受験生の一律減点は差別にあたらないのか?)

また、「トランス排除的である人がトランス排除的である理由を「差別意識」だけに還元することは弊害の方が多い」とありますが、この「弊害」とはいったい何を指すのでしょうか。

「トランス女性が勝手に「ターフ探し」にはげみ、勝手に見当外れのフェミニストを「ターフ」とラベリングし、勝手に啓蒙活動を行い、思い通りの成果が出ないので勝手に憤慨している状態」ですか?

それとも、直後の段落に登場する「アングリーなトランス女性が現実の世界で破壊行為に及び、バンクーバーのシェルター破壊事件のように社会的な実害が出ること」ですか?


「シェルター破壊事件の犯人は正体不明だし未逮捕」の情報が出てくるのはP254上段L24以降、「トランス排除的である人がトランス排除的である理由を「差別意識」だけに還元することは弊害の方が多い」よりも後です。

(P254上段)「(…)もし仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し、批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む。」とありますが、「ターフか否か」の判定基準が「(自覚的な)差別意識の有無」に帰結されている千田さんのこの主張もまた、「ことさら「意識」を持ち出し、(トランス排外的なフェミニストを批判する(おそらくトランス女性と仮定されている)人物を)批判のターゲットとする」点で、同じく大きな問題を抱えているのではないでしょうか。

仮に「トランス差別的だと批判されている人たち(フェミニスト)」にトランス差別的な意識があるか否かは重要でないと主張するのであれば、なぜ、「トランス差別的だと批判されている人たち」の言動や主張を検証したうえで「彼女たちはターフではない」と論じないのでしょうか。

「トランス排除的だと言われる人にあったけど、彼女たちに差別意識はない」という主張は、「I have white friends, they're not racists.」と同じ論法であり、なんの証明にもなっていません。

 

⑨「トランスに対して差別意識を持っていたら、そもそもトランス排除という問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性の方が高い。」?

この論理を女性差別にも当てはめた場合、聖マリアンナ医大などの大学入試における女子受験生差別の問題はどのように分析できるでしょうか。

「女性に対して差別意識を持っていたら、そもそも女性排除という問題自体に関心がなく、その問題を避ける可能性が高い」?

女性医師・女子学生・女子受験生に対して差別意識を持っているからこそ、女子受験生を排除しようとするのではないでしょうか。

差別意識があるからこそ、「問題に関心がない」どころか、積極的に差別的な言説を作り出し、問題行動を繰り返すのではありませんか?

そしてその「差別意識」は、差別者本人が自覚しているか否かにかかわらず、存在しているのではないでしょうか?

 

 ⑩「ターフ」を脅迫しているのは誰だ
「目を覆うようなニュースや写真」「血塗られたタンクトップ」「いろとりどりの斧やトンカチ」「武器を携えて「ターフ」をしばくとする写真」

こうした物理的な暴力と脅迫を用いて「「ターフ」を脅迫する人たち」の正体は、この論考では明確に定義されていません。

「「ターフ」を脅迫する人たち」はトランス女性なのでしょうか?

それとも、「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている」だけなのでしょうか?

千田さんの書いた論考では「誰が「ターフ探し」をしているのか」という点が、そもそも明確になっていません。

本論考の最終段落「このような暴力に陥ることになく、私たちが多様性に基づいた社会を設計するには(…)「ターフ」を見つけ出して、制裁を加えることではなく、問題を構造を見据えた私たちの社会的合意の達成[が必要である]」とありますが、ここで述べられている「「ターフ」を見つけ出して、制裁を加える」人たちは、一体誰を指しているのでしょうか。

千田さんは「トランス女性が犯人だ」とは一言も書いていません。

しかし、「トランス女性は犯人ではない」とも書かないので、「ターフ狩り」の犯人像がトランス女性であるとも、トランス女性ではないとも読める玉虫色の表現になっています。

このブログ記事の②で指摘した、バンクーバーの女性シェルター破壊事件への言及における問題と、同じ問題です。

「トランス女性が犯人だとは言ってない、でも犯人は逮捕されてないから本当にトランス女性じゃないのかは分からない、本当はトランス女性かもしれない、でもトランス女性じゃないかもしれない」という、犯人の正体がシュレディンガーの猫状態になっている事件を例に用いても、読者の不安を煽るだけです。

 

「私は犯人がトランス女性だなんて一言も言ってないですよ」というポーズを取りながら、トランス女性が犯人ではないかと匂わせるような事件・脅迫の例を羅列して「ターフ狩りの憂き目にあってるフェミニストはこんなに酷い環境にさらされてるんです、ターフ狩りする人たちのせいでまともな議論が進まないんです」とトランス排外的なフェミニストの窮状のみを訴えるこの文章を読んで、果たしてどれだけの読者が「この人はトランス女性のことも、自分と同じ「女性」と考えて心配しているのだ」と考えることが出来るでしょうか。

果たしてどれだけのシス女性とトランス女性に「互いに連帯する必要がある」と考えさせることができる文章なのでしょうか。

「私はアジア人が犯人だなんて一言も言ってないですよ」というポーズを取りながら、アジア人が犯人ではないかと匂わせるような事件・脅迫の例を羅列して「レイシスト狩りの憂き目にあってる白人たちは、こんなに酷い環境にさらされてるんです、レイシスト狩りする人たちのせいでまともな議論が進まないんです」とアジア人排外的な白人の窮状のみを訴える文章を読んだとして、いったいどれだけの読者が「この筆者はレイシストではない」と考えることができるのでしょうか。

「破壊活動の口実に使われているアジア人に、私は同情する」と考えることができるのでしょうか。

 

この文章は「トランス排外的な人たち」に「自分たちに差別意識はないから、差別じゃありませんよね」という言い訳の手段を与える点で、非常に問題のある論考だと思います。

「我々は、すでにジェンダー論の第三期の時代に到達しているのではないか」という千田さんの指摘は(第三期の定義を非常に限定的にした場合においてのみ)正しいと思いますし、「シス・トランスを含むすべての人々が安心安全にトイレを利用できる環境が目指されるべきだ」という指摘にも賛成です。

しかし、(シス)女性用トイレを利用するトランス女性と、ペニスのある女性によって安心安全をおびやかされていると感じるシス女性とを対置させた状態で、「なぜそこ[トランス女性が安心安全を感じて使用可能なトイレ]が従来の「[シス女性用の]女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。」と述べるのは、(シス)女性用トイレからトランス女性を排除することを容認しているように感じます。

また、「犯人がトランス女性だとは限らない」という主張の論拠が非常に弱く、ほぼ提示されていない状態で「ターフ狩りの憂き目にあってるフェミニストを取り巻く環境ってこんなに悲惨なんです」と犯罪被害を列挙するのは、シス女性とトランス女性に連帯を呼びかけるにあたって、非常に配慮に欠けた書き方なのではないかな、と思います。

 

~ここまで書いた時点で、改めて~

ここで、改めてゆなさんの「「女」の境界線を引きなおす」批判を読み直すと、千田さんに「誤読」と言われている要約が、起きるべくして起きた「誤読」なのだということが分かります。

 

「1.そもそもシス女性には現在、ないし従来の常識に照らしてペニスを恐れる理由があるのであり、それは差別意識によるものではない。」

千田さんはこの部分について「本論考の起点ではない」と指摘していますが、「シス女性がなぜトランス排外的ともとれる言動をしてしまうのか」という説明を成立させるためには、必要不可欠な要素であることが分かります。

「シス女性にトランス差別の意識はないが、トランス排外的ともとれる言動をせざるを得ない理由がある」という前提がなければ、「トランス女性の(シス)女性用トイレ利用に恐怖を感じるシス女性は「ターフ」ではない」「ターフ狩りの憂き目にあっているフェミニストは「ターフ」ではない」という論理が成立しないからです。

この点について、「論文の起点ではないから誤読だ」と断じるのは、いささか乱暴でしょう。

 

「2.トランスはジェンダーの第三段階に当たる、「身体もジェンダーアイデンティティも自由に構築する」という発想のもとで自身のアイデンティティを自由に構築している。」

これは原文において、美容・ファッション目的の娯楽的な「身体変容の自由」と、性別違和を解消するための苦渋の決断としての「身体変容の自由」とが並列され、前者の「ノリの軽さ」、後者の「ノリの重さ」が軽視・無視されていることによって生じた「誤読」です。

「(実はすべてのひとにとって、その[セルフ・アイデンティティの選択という]自由の行使はそう容易でもなければ、均等に分配されているわけでもないことは別稿に譲るとして)」という文言が、P252下段L14-16と離れた場所に書かれていることも、誤読の余地を排除しきれなかった要因の一つだと思います。


「身体変容の自由」の説明は主にP251上段に書かれているのですが、P251の裏面にP252がある(同じ紙の表と裏に、P251とP252が印刷されている)ので、実際の表示ノンブルの数値以上に、物理的な距離が隔たっているかのような読書体験であると思います。

私は、千田さんが「トランスは美容・ファッション感覚で「身体変容の自由」を行使して、性別を選択している」と書いているとは思わないのですが、「身体と意識が切り離し可能だから脂肪吸引手術で身体を変容させたい太っているひと」と「身体と意識を一致させるために身体を変容させたいトランス」の共通点と相違点については、もっと字数を割いて丁寧な分析を読者に示すべきだったと思います。(テーマをもっと絞r以下略)

自身の書いた文章が読み手に「誤読」させる余地を多分に含んだ文章であったにもかかわらず、「誤読」の原因を読み手の読解力のみに求めて「虚偽だ」「誤読だ」と断じるのは、ちょっと、どうなんでしょうね……。

なお、この「2.」の部分で生じた「誤読」によって、連鎖的に「3.」が一部「誤読」的な要約となります。

 

「3.自由に構築できるアイデンティティなのだから、従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。」

前半の「自由に構築できるアイデンティティなのだから、」の部分は「2.」で生じた「誤読」で、千田さんの原文が美容目的の「身体変容の自由」と、性別違和解消のための「身体変容の自由」を並置させ、両者の「ノリの軽さ・重さ」を軽視した書き方になっていたことに起因します。

後半の「従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。」の部分は、千田さんの原文にある「なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。」という問題提起の文章から派生しているように思います。

前半部分に関しては「(起きるべくして起きた)誤読」だと思いますし、後半部分との因果関係も(私が千田さんの文章を読んだ限りでは)「誤読」だと思います。

「従来からのシス女性の安全を脅かすような仕方で女性トイレ等の使用を求めるのではなく、」という部分については、バンクーバーのシェルター破壊事件への言及から連想された文言だと思いますが、この点については「②トランス女性のトイレ・風呂の話題から、「バンクーバーのシェルター破壊事件」へのつながり」で言及した通りです。

「トランスに負担を強いる形で、トランスのトイレの問題は「問題がない」ことになっている」という周囲の人たちを例示したすぐ後に、バンクーバーのシェルター破壊事件について言及するのは、「日常生活で負担を強いられているトランス女性が、いつか(シス)女性用トイレを破壊するのではないか」と示唆している文章として読まれてしまっても仕方がありません。

トランス女性はトランス女性のスペースをつくり、それぞれの安全を求めればいい。」という要約については、あながち「誤読」していないように思います。(「⑦トランス女性のトイレ問題」参照)

千田さんが「シス女性がペニスのある女性を恐れるのは、ペニスが存在するからだ」と論じている以上、千田さんの論考に素直に従うならば「シス女性が安心してトイレを使うためには、ペニスのある女性はシス女性と同じトイレには入れない」という論理が成立します。

これは、トイレという空間における「男性/女性」の線引きを変えたとしても、「男性」「女性」という概念そのものの線引きを変えたとしても、同じです。

トランスの人たちに「相応の社会的なコストを支払」わせることで(シス)女性の安心安全を確保すればいいのではないか、という提案しているように「誤読」させる余地のある文章だと思います。

 

「4.それにもかかわらず、トランス活動家はシス女性たちの恐怖を差別意識だと誤認し、それを正そうとしては失敗していらだった挙句に、ときに破壊活動にまで及ぶ。」

これは、私が「玉虫色の表現」だと指摘した原文の問題点によって引き起こされた「誤読」です。

トイレの利用に関して日常的に不便をを強いられているトランスの状況を提示してから、シス女性用のシェルター破壊事件を参照して「ターフ狩りの被害にあうシス女性」の姿を読者に印象づけ、「ペニスのある女性がいると、シス女性は安心してトイレを使えないんです」と、シス女性が安心安全にトイレを利用する権利がおびやかされている状況を説明したあとに「トランス女性が従来の「女性」トイレに入らなければいけない、とアプリオリに決まっているわけではない」と論じ、「ターフ狩りの憂き目にあってるフェミニストはこんなに酷い環境にさらされてるんです、ターフ狩りする人たちのせいで議論が進まないんです」と「ターフ」の烙印を押されたフェミニストの窮状を訴えながら、トランス女性が犯人ではないかと匂わせる脅迫行為を列挙して読者の不安を煽り、ほんのお気持ち程度に「バンクーバーの件は犯人がトランス女性かは不明です(でも逮捕されてないから本当にトランス女性じゃないのかも分かりません、本当はトランス女性かもしれません、でもトランス女性じゃないかもしれません)」とフォローを入れるこの論考の筋に素直に従うならば、「この筆者は「シェルター破壊事件の犯人も見当違いなターフ狩りをしているのもきっとトランス女性だ、怒り狂ったトランス女性たちが勝手に勘違いして勝手に怒って勝手に暴れているだけなのだ、被害にあったシス女性やフェミニストたちは可哀そうな被害者だ」と読者に訴えたいのだろう」と考えるのが自然ではないでしょうか。

私は、この論考が、トランス女性に対してフェアな書き方をしている文章だとは思いませんし、誤読の余地が極力排された文章になるよう配慮して注意深く書かれた文章だとも思えません。

ゆなさんの「誤読」は、説明不足な論考の「玉虫色の表現」によって起こるべくして起こった「誤読」ではないでしょうか。

 

 

~~~オマケ~~~

トランス女性に対するシス女性の不信感って、ぶっちゃけこういう「煽るだけ煽ってなんの責任も取らない輩」が存在するからって側面もあるよね。

百田尚樹がお茶の水女子大のトランスジェンダー入学に下品な差別攻撃!「よーし今から勉強して入学を目指すぞ!」 (2018年7月14日) - エキサイトニュース

 

~~~オマケ2~~~

「優れた論考につても積極的に語ってほしい」←ですよね!!???

というわけで、ここからは個人的に超一押しな記事TOP5について書きます。

鈴木みのりさんの記事がめっちゃ良いぞ!という話はすでに色々な方たちがされていますので、他の方々が執筆された記事について。

①「分断と対峙し、連帯を模索する:日本のフェミニズムネオリベラリズム
 (対談)菊地夏野×河野真太郎×田中東子

めっちゃいい対談だから読んで、頼む読んでくれ。この対談のためだけに1980円(税込)出しても惜しくない。

②「感じのいいフェミニズム?:ポピュラーなものをめぐる、わたしたちの両義性」
 (執筆者)田中東子

「(女なんだから)もっと愛想よくしろよ」という言説に、フェミニズムはかれこれ50年以上(いやもっと)抗い続けているはずなのだが「あーあオマエらが愛想良く喋らないから聴く気なくした〜自分がフェミニズムに興味ないのはオマエらが感じ悪いせいだ〜あ〜あ」とのたまうノー勉だけど地頭には自信あります系アンチのために愛想良く感じよく応対させられてる地獄&でも現実問題、愛想よく話した方が話を聞いてもらいやすいんだよね…という葛藤について。頼む読んでくれ。私の要約じゃなくて原文にこそ価値がある。

③「インターセクショナル・フェミニズムから/へ」
 (執筆者)藤高和輝

個人的に「え…SUKI…///(フォーリンラブ)」みたいな論考です。有色人種の女性(原文では「黒人女性」)が二重に疎外されてる話、オリエンタリズムの枠組みにおけるアジア人女性にそっくりじゃん何それなんてサバルタン?キンバリー・クレンショー……ベル・フックス……モーハンティー……覚えた……読む……ちゃんと読みます……名もなき読者の私に素敵な知識を授けてくださりありがとうございます……(合掌)

 ④「波を読む:第四波フェミニズムと大衆文化」
 (執筆者)北村紗衣

第一波フェミニズムと呼ばれる時代以前のフェミニズム的な動向にも目配せしつつ、第一波~第四波フェミニズムまでこんなに整理整頓されたフェミニズム史概観って他にあります?と逆に問いたい。本文のみならず、参考文献も必読だと思う。第2章「第四波フェミニズムの動き」と併せて読めば、海外(英語圏)の最新のフェミニズム研究を参照する際に覚えておくべき研究者の名前が分かる。助かる。本当に助かる。良い論考は参考文献もまた素晴らしい、の法則が体現されている。研究論文における「心・技・体」の一致とは…のお手本みたい。

⑤「女性視点の日本近現代史から見えるもの」
(執筆者)深澤真紀

①で紹介した対談の後にソッコー読みました。山川の日本史の教科書と並べて読むとなお良い。あと、この記事を先に読んでおくと、他の執筆者の記事を読むときに「あっ、これ進研ゼミでやったところだ!」状態になれます。

以上、個人的に一押しな記事TOP5を紹介しましたが、他にもオススメしたい記事がたくさんあるので、ぜひぜひお近くの書店で『現代思想』を手にとってみてください。個人的には装幀も好きだしオススメなんだでも「装幀――六月」としか書いていないんだ「六月」さんって何者なんだ!?って感じです。気になる!!